馬見塚公園の歴史と由来

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「馬見塚」の由来とその歴史

朝廷へ献上した馬を飼育していた広大な原野だった

ここ馬見塚公園のある駒ヶ根市福岡の地は、大昔に馬の牧場があり、朝廷への献上馬を飼育していた広大な原野で、戦国時代にはこの辺りを「馬住ヶ原」とか「作左右衛門分」などと呼んでいたと言われています。

江戸時代の末、安政二年(1855年)福岡の福澤潤芝ら有志十八名が、南の原(現在)地籍を開墾し中田切川からの分水計画を立てました。

安政六年より、明治二年(1869)年に至る間に当時の筑摩県に訴願すること数次、なかなかその要望は聞き入れてもらえませんでしたがその志を遂に達し、明治五年(1872年)に起工。水路の延長二里余、開田数十町歩なお潅漑の地四百町歩を残し、ため池は水路工事に先立って、元治元年(1864年)に工事が行われ、これらの工事に投入された人足は延べ1863人という大工事で、明治七年に竣工したと、記録に残されています。

創業当時(昭和20年代)の旅館写真
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創業当時(昭和20年代)の旅館

運動場から、馬見塚公園へ

大正十一年(1922年)福岡辻沢青年会がため池の周りを整備して運動場とし、大正十三年に馬見塚公園となりました。
以来、蚕玉様の愛称で祭りが執り行われ、余興に自転車競争や相撲・弓の大会が行われ伊那谷の春の一大行事のお祭りとして、近隣の町や村から多くの人々が訪れました。地域の産業振興・家族の健康と繁栄を願い、現在も五月三日には地元馬見塚奉賛会が中心となりお祭りが盛大に行われています。

市民の憩いの場として…

公園の桜は、大正十二年に植えたと古老のお話ですが、今は桜とツツジ等の名所となり四季を通して憩いの場所として、地元内外から多くの方々が訪れています。
馬見塚公園の地名の由来ですが、現在も南へ五百メートルの地に馬住ヶ原地籍がありその面影を残しています。前述致しましたように遠く平安の昔に官営牧場があり、その道しるべの塚があったからとか、亡くなった馬の供養の塚があったからとか諸説がありますが、いずれも定かではありません。(郷土研究家 北沢雄喜氏・宮下一郎氏)

創業当時(昭和20年代)の旅館写真
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創業当時(昭和20年代)の旅館

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左馬

当旅館の玄関を入っていただくと、フロント手前の壁面に天井にも届くような大きな書が掲げられているのをご覧いただくことができると思います。「馬」の字が左右反転して書かれている「左馬」の字。
郷土の教育者であり、また書の大家でいらっしゃいました故北原青雲先生より、平成2年に当館で開かれました学校の先生方の書道教室の折、「商売繁盛の縁起の良いものですので表装して飾って下さい。」と頂いたものです。
当旅館では、その【招福・開運出世・商売繁盛・交通安全・病気平癒】など、とてもおめでたい意味が込められた左馬でお迎えしております。

左馬写真
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左馬

左馬の縁起

縁起

詳しくは→こちらをご覧ください。

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